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4.24.2017

治安維持法に関して

数年前(2009年11月)「世界平和フォーラム」で日本の戦前の政治体制を反省する機会があり、私と鹿毛氏が、日本におけるファシズム、治安維持法に関して講演しました。現在日本では、「共謀罪」が国会で議論されている状況下で、日本の戦前の治安維持法の再生になると懸念されています。そこで、「世界平和フォーラム」で簡単に報告した治安維持法についてのPPTを参考のためにここに掲載します。これは英文ですが、いずれ、日本語にします。






4.16.2017

「利潤という利己的遺伝子」の放棄は可能か 地球と人類の存続のために

「利潤という利己的遺伝子」の放棄は可能か 地球と人類の存続のために 


以下は、ちょうど10年前日刊ベリタ2007年4月12日に投稿したものである。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200704121502314   

  R.Dawkinsが唱え始めた「利己的遺伝子」という概念がある。それは遺伝子というものは自己の再生産のみを追求する利己的なものであり、それによってすべての生物進化や多くの生物の挙動が説明されるというものである。これは生物の基本的性格である自己再生産が、自己の存在と継続にとって必須であることに基づいている。自己再生産がなければ、その生物は死に絶えてしまうからである。すなわち生き続ける生物は存在しなくなる。したがって、遺伝子は利己的にならざるをえない。もちろん遺伝子そのものが、意識的に利己的であるという意味ではない。

 さて、R.Dawkinsは、生物的遺伝子の類似から、人間社会において受け継がれ、変形されていく素子をgeneに対して「meme」と命名した。この概念の社会進化への適応性の可否は種々議論されている。その議論に参加するのはこの小論の目的ではない。社会現象のなかには、memeと定義されてよいものは種々ある(例:倫理項目(善、悪その他))が、利潤(profit)なる概念をその一つとしてあげてもよいだろう。この概念をそのまま使用とするとこの小論の題名は「Profit as selfish meme」となるが、「meme」なる言葉があまり広く知られていないので「Profit as selfish gene」 (利己的遺伝子としての利潤)と表現する。

 利潤は、インプットに対してそれに対応するアウトプットが量的に多いことと定義できるであろう。物理的に考えると、例えばエネルギーインプットを変換して違った形のアウトプットとする場合、変換効率が100%ならば、アウトプット/インプット比は1である。変換効率は理論上100%以上ではありえないから物理的には利潤はありえない。

 経済活動において利潤を生む(アウトプット/インプット比を1以上にする)には、(a)アウトプットを過大評価する、(b)インプットを過小評価する、(c)アウトプット量を増して経済効果を狙う,(d)経済論的にはインプットと見なされないものを援用するなどの方法がある。しかも現在の経済体制の中では、「利潤」を増すことが経済活動の根本とされる。すなわち「利潤」を上げ得ない、または少なくともアウトプット/インプット比が1でなければ、その経済活動単位(企業など)は縮小を強いられ、いずれは存続不可能(破産)になる。これが「利潤が利己的遺伝子」たる所以である。

 現経済体制では「利潤」は金額に換算して測られる。市場経済では利潤は、企業レベルでのそれと、投資家の側からの投資効率に反映されるそれとがあり、資本主義の露骨な面が露になってきた(新自由主義と称せられる)現今では、この後者の利潤が特に追求される。このため、投資家の利潤拡大が非投資家の犠牲の上に求められ、必然的に社会に経済格差が生じ、拡大される。似たような概念に拝金主義という言葉があるが、これは「利己的遺伝子としての利潤」と同じではなく、より一般的な概念である。例えば、拝金主義は、保険金欲しさに自分の子供も殺すなどという行為も含むだろうが、「利己的遺伝子としての利潤」に基づく行為とは言えない。現在の社会/環境問題の多くは「利己的遺伝子たる利潤」なるものの追求に起因する。

 したがってこれからの人類が解決しなければならない問題の一つは、「利己的遺伝子たる利潤」なる通念を放棄し、他の概念に基づいた経済体制を構築しなければならないことであろう。この問題を考える前に、上に述べた利潤を上げる方策(a—d)がどのような社会問題(環境問題を含む)を引き起こしているかの2、3の例を上げておきたい。これは、かなり単純化した議論であり、正規の経済学的議論ではない(筆者は化学者)が、そのために却って、問題の在処が良く見えてくるのではないかと思う。

▽「利己的遺伝子としての利潤」が引き起こす問題

 (a)アウトプットを過大評価する─物やサービスをできるだけ高く売りつけることである。それには、寡占状態にもっていくこと、それができなければカルテルなどを結成するなどの方法がある。更に直接的な方法は金融操作(企業の売買も含め)で金銭的利潤を作り出すことであり、極端な場合は財政粉飾すら用いられる。今や見つからない限り、こうした方法をとるものが増える傾向にある。

 (b)インプットを過小評価する─金銭的インプット、物的インプットを減らす。それには雇用者を安く使う(正規雇用を減らし、非正規雇用に多く依存)、人間を機械で置き換える(オートメ化)、人件費の安い所に営業を移動すること、アウトソーシング、安い材料を使用するなどの方法がある。環境への汚染などのインプットに加えるべき項目を無視する(後述、d)。

 (c)アウトプット量はインプット量に対して直線的に増えず、アウトプット量を増やすと経済効果(増量効果)がある場合が多い。それは、インプットの一部が設備費などで、アウトプット量にはあまり依存しないからである。これは、大量生産を促し、したがって大量消費を奨励することになる。消費拡大─成長経済である。これが持続できないことは目にみえている。しかし、現在でも、経済界の最大の関心事は、消費拡大である。

 (d)これは外部効果として、正規の経済学では計量されないインプットである。例えば、現在先進国の市民は豊かな食生活を享受しているが、それは長距離/迅速輸送に依存している。輸送の為の手段、輸送に要する人件費と費用(燃料費など)、物資の値段などは計量可能だが、輸送(例えば航空機)が与える環境負荷などは無視されている。更に、このような市場経済が生産者である市民に不利な影響(価格が低く抑えられている、環境を不当に悪化させているなど)を与えているがそれも計量されない。ある場合には、生産者の不満を抑えるために、輸出国の警察なども動員されるが、その費用も加えられない。こうしたことが、インプットを不当に低く見積もらせている。現在、他国の生産者に正当な生産費を払おうとする運動が起こりつつあるが、良い傾向である。

 (e)以上の他に、利潤追求の経済社会体制が齎す問題は種々ある。例えば、利潤を直接的に追求する金融業が物作りよりも優先されるので、社会の実質的富(物質的、サービス的)は増えず、見かけの富のみが追求される。これはいずれは社会の破綻をもたらす(日本の90年代のバブルのはじけ、近年のアメリカ、イギリス経済の落ち込み)。

 最も先鋭な「利潤」追求の問題は、破壊(人命も含む)を目的にした生産で、武器生産販売/戦争遂行によって利益を得るものである。これは公共財源を搾取するものであるし、人命という金銭的価値の計量不可能な存在(というインプット)を無視している。もちろん、こうした無視を許容する政治体制があるから可能なのであるが。

 また社会的に意義があると認められても利潤が見込まれないものは遂行されないことがある。すべての社会サービスがこれに該当するが、新自由主義ではその多くが公共部門から私的部門(民営化)にまわされているのでこういうことになる。その他でも、例えば出版界は、売れて儲かる本のみを作り出している。ときたま社会的に意義があるものが出版されるのは、幸いにまだ意義の分る読者が利潤を見込める程度にはいることによるのであろう。

 この退廃的資本主義市場経済(新自由主義)の基本的な問題の一つは、富の偏在(格差社会)をもたらすが、富に与れない多数が同時に消費者であることに起因する。富の偏在のために多数派の消費者が消費できなくなり(最低の生活すら難しくなり)、したがって少数派の富者は富を増やせなくなり、やがてはこの社会は問題(混乱、犯罪その他)を抱えながら、崩壊に向かわざるをえない。

▽代わりの経済体制に移行するには

 利潤追求に基づいた現社会経済体制をいかに(ii)、どのような体制(i)に変えて行くかが人類が直面している最大の問題の一つである。そのためには、「利潤」は本当に「利己的」で増大しなければならないものだろうかを考える必要があろう。「遺伝子」は、先にも述べたが「利己的」ならざるをえない。これは、人間にはいかんともなしえないものである。「利潤」という概念、特に現在の「利潤の偏在」は人間の作り出したものであり、人間が変更することも可能である。がこれが困難である。この考え方が社会の隅々まで浸透しきっているからである。しかし、これは全人類が考えなければならない問題である。さてこのような根本的な議論を行なうには、先ず経済とは何かを考えてみる必要があろう。経済とは「それによって人々が生活を運営しうる拠り所を提供しうるような体制」であると考えておこう。

 (i)新しい経済体制の形:「利潤」に依存しないか、現在よりは「利潤」に依存する度合いの少ない経済体制にはどのようなものがありえるか。言い換えれば、「利潤」の代わりに何を根拠に経済を構築するか。これは、「利潤」というものを誰が享受するか、すなわち少数の投資家か多数への配分かという問題も包含している。利潤そのものは、外部効果などを正当に考慮するならば、現在よりも格段に少なくなる─理論的には「利潤」なるものはありえないのである。経済上の「利潤」の大部分は、不完全な計量を故意に不当に操作した結果にすぎない。正当化されうる「利潤」というものがあるとすれば、それは個人や企業の「社会的に意味のある創意」に対する評価を利潤の形で個人や企業に還元するもののみである。評価は利潤/金銭という形でのみ行なわれなければならないわけではないが。

 さて、今後の経済体制の根本的条件は、それが人類がこれからもある程度の文明的生き方を維持出来るような配慮と施策が盛りこまれていなければならないことである。すなわち、いわゆる「持続可能」な社会/環境を可能にするような経済体制である。この条件と「利潤」追求が両立しないことは以上の議論から明白である。ところで、持続とは各国、各企業、各個人の現状を持続することではなく、全人類がその文明を持続することであり、そのためには個々の現状は必ずしも維持されない。

 さて以上のような諸条件に適う経済体制にはどのようなものがあるであろうか。安原和雄氏の提唱する『仏教または「知足」経済』はその一つであろう。それは、この日刊ベリタの「コラム」欄にも何度か登場している。基本的には、これは消費者の態度「知足—足るを知る─」に依存するものである。この概念を企業の態度に適用すると、『「利潤」もほどほどに』となるのだが、先にも述べたように「利己的な利潤」は企業内の個人の思惑は無視して一人歩きをする。限られた地球上の資源で、これから何世代も人類が生きていくためには、消費(再生不可能資源)の制限、再生可能資源もその再生能力の範囲内での消費が必須である。

 これを実現するには、外部からの強制に委ねる(配給制など)か、個人の節制力に依存するかのいずれかである。「知足」という概念は、この後者のやり方であり、個人の倫理観の変革がなければならない。さらに具体的な持続可能な経済社会体制全体のイメージを提供するものに、H. Bossel著『岐路に立つ地球』という著書がある(翻訳はあるが出版されていない)。また、「利潤」とそれの評価を経済指標とするGNP/GDPの代わりに「国民の幸福度」を指標にしようとしているブータンという国のやり方なども参考になるであろう。いずれにしても大変難しい問題であり、多くの人々の知恵を集める必要があろう。

 (ii)さて次の問題は現経済体制から新しい体制へどう移行させていくかである。できるならば、大混乱を伴う急激な変換でなく、いわば「軟着陸」が望ましい。特に難しいのは、先進(大消費)国の消費を縮小することであり、これに伴う大幅な生活度の低下は、抵抗が大きくなかなか実現しにくい。エネルギ−消費を減少させながら、再生可能なものに転換させ、物質消費もいずれは、現在の20%程度にまで下げねばならないであろう。しかもそうしながら、生活度(幸福度)をあまり低下させない方法はありうるか。実は無駄を減らすことによって(必要消費量を下げることなく)50%位の減少は容易にできることは分っている─これはやる意志の問題である。

 個人の消費を幸福度/生活度を下げずに減らすには、おおよそ二つの方法がある。一つは先に述べた「知足」の倫理を人々が獲得すること、すなわち個々人の意識の問題。もう一つも意識/倫理の問題ではあるが、「個人所有」の概念を大幅に放棄すること、そして個人の生活必需品以外の品々(自動車、レクリエーション用品その他)を人々/コミュニテイーと共有すること(公共交通手段は一例)。もっと切り詰めるならば、例えば冷蔵庫などもコミュニテイーで共有、いずれは、食事もコミュニテイーレベルでということになるかもしれない。

 そうなれば、そうした生活手段を提供する側(企業)は、販売量の絶対量を大幅に低下させざるをえないか、販売量の減少をほかの方法で埋め合わせる必要がある。例えば、物を売る代わりに、物に付随するサービスを売る(物そのものは必然的にリサイクル)などの方法もすでに試みられている。また、大量の物資の長距離輸送は減らさなければならない。すなわち、生活基本物資(食糧、家屋建築材料、通常の衣料、飲料水など)は現地調達が原則にならなければならない。これらのことを、社会の混乱を最小限におさえながら実現する方向にどうやって持って行くか。

 政治/社会組織面での変革も必要であるが、おそらく「知足」や「他生物や地球そして自分達の後から来る世代への責任感」といった倫理観が多くの人々に獲得されなければならないであろう。それなくしては、いつまでたっても人類は抗争に明け暮れ、そして地球が疲弊して、人類文明などは支えきれなくなる日が遠からず訪れるであろう。

落合栄一郎

欧米諸国による敵対政権破壊の動き 中東騒乱にみる選民意識

以下は数年前(2012)に日刊ベリタに投稿した記事である。現今のシリア情勢の根本問題に関係しているので、ここの再掲載する。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201204050959234    

欧米諸国による敵対政権破壊の動き 中東騒乱にみる選民意識 


  先に欧米諸国に残る選民意識が発動した例として、ノルウェーの銃乱射事件を論じた(落合:日刊ベリタ2011.08.01)。この例は、個人の選民意識が明らかなケースであったが、中世後半から始まる西欧文明の台頭と世界制覇は、キリスト教の教義に含まれたと彼らが考えた「神に選ばれた」自分達が、世界を制覇するという信念から発していたようである。その精神が、実はまだまだ生きているようである。
 この信念は、現在の経済による世界支配と結び付いて発揮されているため、こうした選民意識は、欧米人自身の意識にはのぼり難いが、様々な面で、それが発揮されているように見える。アメリカでは、オバマという黒人が大統領になるという、選民意識に基づく人種差別を克服したかにみえる状態までに至ったのはよいが、キリスト教右派は、その選民意識をむしろ鮮明して、大統領を始め、黒人インテリ(ハーバード大教授など)を迫害している。

 アメリカという国が、建国以来特に中南米の民主主義政権(それが、アメリカ企業の進出の邪魔になる)を倒し続けてきたことは周知のことであろう(落合:日刊ベリタ2007.12.13、2008.01.08)。冷戦時代は、国内で社会主義/共産主義を悪魔の如くに喧伝し、アメリカ人に共産主義へのアレルギーを植え付けた。

 冷戦終了後は、テロリスト撲滅、人道擁護などを旗印に、欧米諸国に楯突く国々を攻撃している。まずテロリスト撲滅という名目で始めたアフガン戦争を、次には、様々な偽情報を基に、アメリカに楯突く(そして同盟国であるイスラエルにとって邪魔な)サダムフセインを打倒、民主主義導入を旗印にイラク戦争を引き起こした。次に欧米諸国にとって目の上のたんこぶ的リビアのカダフィに、国内反対派をたき付けて反抗させ、カダフィ側がそれに抵抗すると、長期政権をとり続けたカダフィが人民を抑圧するとして、人道的支援を称して、リビアの内戦に干渉し、カダフィを取り除いた。

 そして,現在は、シリアである。反政府側テロ組織を後押しして、内乱を拡大し、それに対するアサド側の抵抗を人民抑圧とし、多数の市民の命を守るという人道支援を強化している。最近の市民の多数虐殺も,反政府テロ側は、政府軍によるとし、政府側は、反政府テロリストの強行としている。被害にあった側の側近からの情報では、反政府テロリストが行い、その結果の動画を撮影して、政府側のやったことだと報道しているし、欧米のメデイアもそれにならっている。というより、これら一連の動きは、親欧米政権であるサウジアラビアなどの後押しによるテロ組織、それを背後から支える欧米諸国によるもので、その支配下にあるメデイアは、反アサドに好都合な報道を心がけている。

 最近のシリア内情を伝える報道(*)の一部を紹介しておく。テロによる攻撃は激化しており、政府側軍事施設、警察機構、石油パイプライン、鉄道、市民の惨殺と誘拐、学校への放火、教師の暗殺などが行われている。ホムズでの虐殺の後は、連日アサド支持、反テロのデモが繰り広げられているそうである。この報告者がシリア滞在中で感じたことは、市民の生活や表現の自由は制限されておらず、反政府デモは一度も見られなかった。1月1日のアサドの街頭演説には、数万の人が集まり、市民の歓呼に迎えられた。知識人達も、初期には、アサドの長期政権には不満を募らせてはいたが、テロの台頭で、現政権護持、そしてそれが掲げる改革案を支持する側にまわった。

 これら中東の多くの国で起っていることは、欧米の支配に屈しない政権を自分達に好都合な政権に変えることと、イスラエルを取り巻く反イスラエル勢力を破壊するという目的をもった動きである。さて,この後に来るのが、イランである。イランは、イスラエルにとって最も脅威を感じる国である。その国力を破壊したい。今回は、核開発が軍事目的で行われているという口実で、核施設を破壊しようとしている。
 イスラエルがその周辺からその存続に脅威を受けつつある根本原因が、第2次大戦後のパレスチナ人を排除しての建国と、更なる拡張を強行していることにある。この根本には、いにしえのイスラエルの神が、パレスチナをイスラエルに与えると宣ったというドグマに根拠があり、イスラエル人がその神に選ばれた民族であり、あの地に住む権利を与えられているという思い込みがある。そして、この思い込みは、第2次世界大戦で、被った民族的被害(ホロコースト)で強化されている。それは、ナチスドイツ(キリスト教国)の、ユダヤ民族排撃という、これも一種のキリスト教側の選民意識に基づいていた。

 これら中近東での、欧米の軍事介入は、人民への人道支援を旗印にしながら,邪魔な人民は容赦なく攻撃、死傷させている。そして、そうした攻撃によって被害を受ける側への配慮はほとんどない。イラク、アフガニスタンでは、多数の市民が、犠牲なっているが、それに対する陳謝の念などはどこにもない。欧米政権や軍事関係者は言うに及ばず、普通市民にすらそういうこと(相手側無辜市民の殺傷、環境破壊など)に、懸念を感じている人は多くはない。その底には、自分達の選民意識が流れており、選民ではなく、しかも相反する宗教を信じる人間達への人間的配慮が欠如しているように見える。
 イランの核施設を攻撃(する準備をしている)したら、周辺市民にいかに甚大な被害を及ぼすだろうかなどは考慮に登らないようである。戦争とはそうしたものと言えばそれまでだが、これらの戦争はそもそも、仕掛けられたものではなく、言いがかりを作り上げて、勝手に踏み込んで行っているものである。その根底には、欧米による世界制覇の野望が、植民地時代閉鎖後、新たに働き出しているようにみえる。こう言ったからとて、サダムその他の,長期独裁体制とそれによる人民抑圧(が本当にあったかは別問題だが、あったとして)を行ってきた政権を擁護するものではない。

 なお、逆の場合、すなわち欧米に楯突くのではなく、むしろしっぽを振ってくっついていく日本などは、内心では侮りながらも、友好関係を保っている。いやそれを利用して絞るだけ絞る魂胆である。なお、こうしたことは、権力者レベルに見られる現象(いや見られるわけではなく、彼らがやることか察せられること)であり、多くの一般市民の意識の底にもあるものと思われるが、しかしまた、かなり多くの欧米人には、それに対する反省の念ももち上がっているようではある。というより、そう信じたい。
(*:

4.15.2017

グローバル化(貿易の完全自由化)の是非ー人類の将来見据えた議論を

以下は、7年前に日刊ベリタに掲載されたもの(http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201012081043433)であるが、現今の貿易保護主義の議論に参考になると思い、ここに再掲載します。

グローバル化(貿易の完全自由化)の是非ー人類の将来見据えた議論を

(2010.12.08)

グローバル化そのものは、15世紀(以前からもあったではあろうが、大規模なものはなく、人類の全体への影響は些少)から始まった西欧からの、海上交通を通じての交易(といっても初期には、西欧による他国からの資源(金銀)の収奪)から進行していたと考えてよいであろう。グローバル化はそうした他国人同士の接触がもたらしたもので、広い意味では、人類が、国境の枠を越えて、他国の民や文化に接し、意識し、影響し合う動きとしてよいであろう。そしてこのようなグローバル化は人類の向上のためには望ましい。
しかし、狭い意味では、第2次世界大戦後の全世界的貿易自由化の動きであり、現在では、WTO(世界貿易機構)が代表的推進機構である。関税その他の障害を取り除いた自由貿易により世界の経済活動を活性化し、人類全体の福祉を増大するというのが主張である。世界のあちこちで、地域レベルの自由化は行われている。ヨーロッパ経済連合や北アメリカ経済連合などがある。2010年のAPEC会議(横浜)では、アジア地域での貿易の自由化、環太平洋域の自由貿易協定(TPP)が話題になった。多国籍大企業や、政府からのバックアップのある大農業生産国などは、関税障壁などがなくなれば、自由に商圏を拡大することができる。
世界の全ての国が競争可能な程度の経済状態にあり、資源も同程度に保有しているならば、自由貿易で、互いに益するところはあるであろう。しかし、現状は、そのような状態からは程遠い。競争力が伯仲している国々もあるが、大部分の国は,競争力が弱く、自由貿易では,競争力の強い相手に負けて,負けた国の国民が困窮するのは目に見えている。例えば、農業などの競争力のない、しかしその国にとって不可欠な産業がつぶされることは必定である。このような事態はすでにかなりの程度起っている。すなわちグローバル化は、経済大国や多国籍大企業の経済支配をさらに押し進め、国家間の経済格差を増大させるのみであろう。
また、グローバル化の結果、例えば農作物が単一化されがちである。それは、特定の支配的大企業が、種子供給を独占し、地域の生態系などを無視して、単一種に絞りがちであるから。それが、企業にとっては、利益という点では有利なので。作物の単一化は、その生態系を不安定にする。自然その他の原因(天敵発生など)で、その作物が消滅の危機に晒されると、作付けされたその植物が全滅する。すなわち、人類が必要とするその植物が一気に消滅し、人類は食料危機に陥る。
さらに長期的視野に立ってみると、グローバル化にはもう一つ重大な問題がある。大量の物資の長距離輸送を必要とすることである。例えば、カナダバンクーバ−のスーパーマーケットにオーストラリア産のマンゴーが並んでいる。このような例には多くの問題がある。まず長距離輸送の運賃、現在は輸送手段のエネルギー源が不当に安く設定されているので、経済的に可能だが、いつまで続くか。長距離運送に伴う環境への負荷、また人の口に入るまでに長時間かかるので、保存の仕方(それが引き起こす汚染問題など)などなどの問題がある。
大量に必要とされるが、自国で生産(農業)できるものは、できるだけ自給自足にする必要がある。気候、土壌その他の条件で生産できないが、不可欠なものは、必要最小限を輸入に頼る。こうすることによって、長距離輸送に付随する多くの問題は避けることができる。いずれは、輸送に必要な安価なエネルギー源が枯渇すれば、長距離輸送は経済的でなくなる。すなわち自由貿易は経済的にできなくなる。
しかし、このような状態(反グローバル化)こそが、おそらく持続可能なのであろう。それは様々な理由を総合した結果なのである。まず、農業で生産するものは、地域に依存し、その環境に適応したものになる。地球全体でみると、多様化していることになる。地球全体の生態系にとって、多様化は安定の必須条件である。生態系が安定でなければ、人類文明は持続できない。
現在のグローバル化状況下では、大企業が先進国相手の嗜好品(コーヒーなど)などを途上国で大規模に作らせて、経営者の懐を肥やすが、その途上国での必須な品(食料)の生産を阻害することになる。その地の農民は、こうした嗜好品の輸出から得る僅か(先進国企業が搾取;最近は公正取引などで改善されている場合もあるが)な現金で食料を買わざるをえない。そして、自分達のコントロール外にある世界市場に自分達の生活が左右されることになる。農業を、本来の自分達の必要を満たす方向にもって行く方が良策なのである。
日本のような先進国でも、食料確保のためには、農業をさらに振興させ、自給自足になるべく近づける必要がある。それは、地球温暖化に伴い世界の大農業国の食料生産が不安定になりつつあり、そのような食料輸入に依存していると、場合によっては、日本は飢えざるを得なくなる可能性がある。
グローバル化は、一方、金融による経済支配を進行させる。それは、貿易による取引は、特定貨幣(例えば、米ドル)によることによって簡素化され,促進される。そして、その貨幣を扱う企業が、グローバル市場を支配する。経済の金融支配は、現在様々な経済・政治・社会上の問題を引き起こしていることは周知のことであろう。
以上、簡単ではあるが、グローバル化の問題点をいくつか指摘した。食料その他の必需品の自給自足化に基づく経済体制(反グローバル化)こそが、持続可能であろうし、社会正義にも貢献するであろう。食料などの自給自足とは別に、多くの工業生産品が作られているが、それらの、必要に応じての輸出入を否定するものではないし、先にも述べたが、自国で生産不可能だが必須なものの輸入まで否定するわけはない。このような考え方は、「保護貿易主義」として、犯罪のように扱われるのが現在の雰囲気だが、そのような近視眼的考えを捨てて、もっと人類の将来のことを考慮に入れた議論をするべきだろう。