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9.26.2010

TBS Special Program on Film ANPO and Linda Hoaglund 映画「安保」とリンダ・ホ―グランド監督 TBS特集

バンクーバー九条の会・ピースフィロソフィーセンター共催の10月4日のイベントのゲストはバンクーバー国際映画祭参加の映画「安保」監督、リンダ・ホ―グランドさんを囲む会です。TBSでこの映画とホ―グランド監督に焦点をあてた特集番組があり、YouTubeリンクがありましたのでここに貼り付けます。







9.24.2010

Meeting Linda Hoaglund, Director of a VIFF Film "ANPO" VIFF参加「映画 安保」監督 リンダ・ホ―グランドさんを囲む会

日本語案内はこの下に続きます。
Are you ready for VIFF (Vancouver International Film Festival)?

Film ANPO - by director Linda Hoaglund, producer of highly acclaimed film "Tokko-Wings of Defeat," will be shown in VIFF (6PM on Oct. 3, and 1:15 PM on Oct.4).
*Thanks to ANPO, the "American-Japanese Joint Security Pact", there are still 90 American military bases on Japanese soil, 30 of them in Okinawa. The "Pact" dates from the post-war years when Japan was governed by General MacArthur, and its periodic renewals attracted mass protests - sometimes violent - in the 1950s and 1960s, as seen in films by Oshima and others. Protests against the US Army presence on Japanese soil also surfaced in Japanese painting and sculpture, as shown in Linda Hoaglund's eye-opening documentary essay, which offers some broad historical perspectives on the struggles but centres on the responses of engaged artists. Hoaglund's own perspective (she is an American who was born and raised in Japan, well-known as the subtitler of many Japanese movies) gives the film real heft: she coaxes forthright statements from usually-reticent interviewees as well as getting up close to the political stances embedded in a wide range of paintings....

To purchase tickets: http://www.viff.org/tixSYS/2010/xslguide/eventnote?EventNumber=2584&amp& 
 
See homepage of ANPO, with trailer. http://anpomovie.com/en.html

You are invited to a gathering with Linda, at

6:45 PM - 8:15 PM, Monday October 4
Linda Hoaglund

Please see the movie, and come to our event to meet Linda, ask questions, and talk about whatever is inspired by the film. (It is not mandatory to have seen the film to be part of this event, though. You can meet her and always see the film later.)

Free admission (donations to cover the rental expense are welcome.) Children are welcome. Snack donations are welcome.

For inquiry and RSVP, contact: info@peacephilosophy.com

Vancouver Save Article 9 and Peace Philosophy Centre

Linda Hoaglund Profile:
Linda Hoaglund was born and raised in Japan. Her previous film, Wings of Defeat, told the story of Kamikaze pilots who survived WWII. She has recently directed and produced ANPO, a film about Japanese resistance to U.S. bases seen through the eyes and works of celebrated Japanese artists. 

注目の映画がVIFF(バンクーバー国際映画祭)で公開されます。
映画「安保」 Film ANPO

映画のオフィシャルサイト(日本語)は
http://www.uplink.co.jp/anpo/introduction.php
(予告編もここで観られます)
トロント映画祭にも参加し、日本でも今公開中です。10月には沖縄でも公開されます。

映画についての詳細は下記をご覧ください。
さて、この映画の監督、リンダ・ホ―グランドさんとの交流会を企画します。ぜひVIFFで映画を観た上で参加してください。もちろん都合がつかない場合は映画を観ないでの参加もOKです。

VIFFでの上映は、10月3日(日)午後6時と、10月4日(月)午後1時15分です。

VIFFのチケット購入は:
http://www.viff.org/tixSYS/2010/xslguide/eventnote?EventNumber=2584& 

 リンダ監督を囲む会は
日時 10月4日(月)午後6時45分から8時15分まで


場所 ラウンドハウスコミュニティーセンター2階 マルチメディアルーム


(カナダライン ラウンドハウス駅)

入場無料ですが、会場費をカバーするためのドネーションを受け付けます。

★スナック差し入れ歓迎。

★大体の人数を確認するため、 info@peacephilosophy.com に出席のお知らせいただければ幸いです。

★主催:バンクーバー九条の会、ピースフィロソフィーセンター

★お子さん連れ歓迎です。

★リンダさんは、日本語、英語完璧バイリンガルの人です。来た人の顔ぶれを見て、日本語と英語で必要に応じて使いわけながら進行する予定です。

★私は7月に日本でプレス試写会に参加しましたが、深く心に残る作品でした。60年安保の時期を生き抜き、表現したアーティストたちのインタビューと作品が織りなす「時代のさけび」とも言えるでしょうか。私は生まれたいなかった時代だけに、想像力がかきたてられ、感情の奥底に響く深い体験をしました。その時代を知る人も知らない人も、かけがえのない体験ができる、そんな映画だと思います。
(作品とともに映画に登場するアーティスト、ジャーナリストたち:会田誠、朝倉摂、池田龍雄、石内都、石川真生、嬉野京子、風間サチコ、桂川寛、加藤登紀子、串田和美、東松照明、冨沢幸男、中村宏、比嘉豊光、細江英公、山城知佳子、横尾忠則出演:佐喜眞加代子、ティム・ワイナー、半藤一利、保阪正康)

オフィシャルウェブサイトhttp://www.uplink.co.jp/anpo/introduction.php より。
今から半世紀前の60年安保当時、熱かった日本をアーティストがどのように表現したのか。1960年6月に日米安全保障条約が岸信介政権下で自動更新されるまでの一ヶ月間、国会周辺は安保に反対する市民のデモで溢れかえりました。1945年の敗戦からまだ15年しかたっていないその時代、学生、労働者、主婦など様々な立場の人が参加したこの運動を一つにした最大の原因は「二度と戦争をしたくない」という市民の強い意志だったことをアーティストたちは語っています。

本作『ANPO』を監督した、リンダ・ホーグランドは、日本の映画業界人の間では、海外映画祭に出品する際の通訳や英語字幕翻訳者として知られる、日本で生まれ育ったアメリカ人です。彼女は、字幕翻訳の仕事を通して日本映画を深く知るにつれ、1960年の安保闘争が、当時を経験した映画監督に大きなトラウマを残していることに気づきました。さらに、当時のアーティストたちが絵画や写真を通して安保問題、米軍基地問題を表現しており、日本にも市民による“抵抗”の歴史がある事を発見しました。そのことが、ホーグランド監督のこの映画制作のきっかけになっています。「60年安保闘争とは何だったのか、彼らを闘争に掻き立てたのは何だったのか、そして、その後遺症として未だに日本に残る米軍基地が日本にどういう影響を及ぼしているのか等を映画という形で表現することに決めました」とホーグランド監督は語っています。

現在も日本は、沖縄の普天間基地の問題など、安保に象徴される日米の関係を、根本的にはなにも問い直しをせずに棚上げしてきました。 『ANPO』は、日本で生まれ育ったアメリカン人リンダ・ホーグランド監督が、60年安保を知るアーティストたちの証言と作品を通して、日本とアメリカの関係の問い直しを日本人に迫るドキュメンタリーです。

どうぞお誘いあわせの上お越しください。

リンダ・ホ―グランド プロフィール
日本で生まれ、山口と愛媛で宣教師の娘として育った。日本の公立の小中学校に通い、アメリカのエール大学を卒業。2007年 に日本で公開された映画『TOKKO-特攻-』では、プロデューサーを務め、旧特攻隊員の真相を追求した。黒沢明、宮崎駿、深作欣二、大島渚、阪本順治、是枝裕和、黒沢清、西川美和等の監督の映画200本 以上の英語字幕を制作している。

9.16.2010

黄圭さんのスピーチ

Speech by Hwang Kay, one of the guest speakers at the event on September 11, marking the 100th year of Japan's annexation of Korea. 




9月11日のVSA9のイベントでスピーカーの一人として発言いただいた黄圭(Hwang Kay)さんのスピーチ原稿を投稿します。



 今から115年ほど前に、日本は清国中国と戦争しました。そしてそれから7年ほどして今度はロシアと戦争になりました。このどの戦争も朝鮮の利権をめぐての戦争でした。こうして日本は、朝鮮半島との関わりの中で歴史の道を大きく誤り、自国や周辺の国ぐにの運命をも変えていく不幸な時代へと入っていったのです。



19世紀中ごろまでに、帝国主義列強による植民地分割の時代はとうに過ぎていたのですが、遅くデヴューを果たした日本帝国は、無理やりLateComerとして侵略性をあらわにして行きました。



韓国併合から少し後の第一次大戦後には、パリ講和会議の席上、米大統領ウイルソンによって民族自決が提唱されるほどに、世界の政治情勢は成熟してきていました。



日清戦争の原因ですが、韓国南部の全羅道という所で、「東学農民戦争」といわれる封建支配体制に反対する農民蜂起があり、これを鎮圧しきれなくなった李朝政府は、清国中国に援軍を求めました。日本軍は在留自国民保護を名目に軍隊を出してきました。朝鮮政府は日本側に、農民軍との和解が成立したので撤退を求めたのですが、日本軍はそのまま居座っていました。



そこで日清両軍の衝突となったわけです。



司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、日清戦争は牙山沖で東郷平八郎率いる日本艦隊が清国兵を満載した英国船を撃沈たことから勃発したとされていますが、実はその前に日本軍は朝鮮王宮に夜襲をかけて近衛兵30数名を殺害し、国王を虜にして口実をつくったというのが実相でした。



日本は、日清戦争で得た賠償金で義務教育の学校と、全国の鉄道網を整備しました。その後も、義和団の乱(北清事変ともいいますが。)に乗じて清国の国家予算を上回る巨額の賠償金をとって軍事費を補填したので、日本の軍備は益々増強されていきました。



こうした近代における日本の戦争の歴史と直接関連した産業発展史という側面から、日本が朝鮮半島や中国とどう関わってきたのか、僅かな時間ですが、たぶん皆さんがあまりご存知ないようなことを用意しましたので、お話ししたいと思います。 これまで当たり前だと思っていたことが、よく勉強して考えてみると違うと言うことがあります。



政治と経済、戦争と経済はそのまま直結している、ということは云うまでもありません。



「東アジア共同体構想」は東アジアの平和と繁栄を志向していく上で素晴らしいアイデアだと思います。しかし、私は日本が現状のままでは、この構想は到底実現不可能なことだと考えております。その「現状」とはどういうことなのか、それをお話したいと思います。



東アジアには異質な国があって、それはどこの国かと言いますと中国や北朝鮮ではなく、日本だと言えば、皆さん驚かれるのではないかと思います。



「日本が異質だ」と云うのは一体どういうことなのか、と言いますと、日本人独特の歴史観、アジア観がそこに厳然としてあるという事実を指摘しておきたいと思います。それはあらゆる世代に共通していると言えるのですが、いったいなぜそうなってきたのでしょうか?



歴史というのは私たちの記憶であり、昔あったことと現代とは無関係ではなく、ちゃんと密接緊密に繋がっているという事をいつも確認しておくべきではないかと思います。



日清戦争以来、日本人の意識に深く刷り込まれて来た心理的深層を考えるとき、吉田松陰・福沢諭吉に行き着きますし、薩摩長州の明治政権にいきつくのです。私はこれを<虚構の歴史観>と呼んでいます。



19世紀半ばの黒舟来航以来、尊皇攘夷、討幕運動が起きる中、(NHKの大河ドラマでいま「竜馬伝」というのをやっていますが、面白いですがドラマなので、あまり本気で見ない方が良いと思います)いわゆる国学や、陽明学、水戸学派の中から独特の国粋主義が生み出され、明治以来天皇制国家主義が国家イデオロギーとして形成されてきました。



それまで天皇は武士階級にとっては、権威だったかもしれませんが、それ以外の日本人にとっては、無関係な存在でした。 鎌倉時代以来、国の統治者は武家の頭領だったからです。



明治になって、どういうことが起きたかといいいますと。



日清の対外戦争を煽る意図で「神国日本Story」のフィクションの色づけがますます激しくなっていきました。この大元は天皇制の専制国家をつくりあげた薩長(土肥)政権にこそあったのです。とりわけ長州でした。



「古事記」「日本書紀」「続日本紀」のことを「記紀」と云うのですが、これらは歴史書ではありません。先ずは倭王の権威と正当性を国内に示しておくために書かれました。記紀はすべて漢文で書かれており、中国の人も朝鮮の人もそのまま読めますから、未来の何時の日にか大和王権の存在を、内外に宣伝する目的でつくられたフィクションのようなものだったのです。



中国の「三国志」の中に「魏志倭人伝」という箇所があって、ここに「邪馬台国」や「卑弥呼」という女王の存在が記されているのですが、これと符合させるために、日本書紀は「神功皇后」という女王を出現させ「三韓征伐」というフィクションを作りました。



明治以来これを「国史」として学校で教えて来ました。



朝鮮はかって大和王権が征服した国だから、下に見る、という考え方はここに依拠しているのです。



むろん現代では教科書にはこういうことは書かれていません。書かれてはいませんが、大勢の人びとが集まる有名な神宮神社などには今でも堂々と書かれていて、仮に団体で旅行などに行くと、ガイドさんがそういう話をします。人びとの見方というか、考え方としてはちゃんと今に受け継がれて来ていると云えます。(古代史の話しは時間の都合上、とてもこれ以上ここでは出来ませんが・・・。)



今でも多くの日本人は、「仏教や文字は中国から伝えられた」と思っているようです。それならいっそ「仏教はインドから来た」といえばいいのだと思います。



明治以降、日本という国家がなぜあのような猛々しい帝国になっていったのか? 戦争における数々の残虐行為、その深層について考えてみるときに、一人ひとりの日本人をみれば 繊細で親切なとても良い人たちなのに、なぜそうなってしまったのだろうか?と思うわけです。



そこには眼に見えない、大きな根っ子があったのです。日本史で偉人とされる吉田松陰・福沢諭吉そう人たちの教えを、そのまま実行していったのが日本帝国そのものの姿ではなかったのだろうかと、私は考えています。



朝鮮、中国の他、インドシナ半島やフィリピン、ボルネオなどは日本帝国の侵略を受けて多くの被害を受けたのですが、こうしたアジア蔑視、歪んだ世界観による戦争政策が「大東亜共栄圏」という欺瞞の元で推し進められてきたのです。



いわゆる「皇国史観の教育」では、ヤマト民族は「アマテラスの子孫」で優れていて「一等国民」なのだから軍隊で他国の領土を侵してもよいのだ、という一種「狂気の論理」が、そのまま国家による国民への刷り込みとして国家権力総動員のもと、一環した教育政策として遂行されてきました。



歴史書には出て来ない実史があります。 日清戦争の講和のため下関を訪れた李鴻章を嘲る歌がつくられ、明治人ですら聞くに堪えないような民族蔑視観を広げる流行り歌として、巷で公然と歌われました。またある時代「鰯がサカナか朝鮮人が人間か」という歌もありました。



権力は、国民に対して「日本は必ず世界に冠する帝国になるのだから、今は我慢しろ」と言わんばかりの、フラストレーション懐柔策として、官主導で流行らせたようなふしが見受けられます。



近代以前の歴史の話しを少ししますと、 江戸時代の260余年間、日本と朝鮮国とはとても良い関係にありました。江戸の将軍が代わるたびに、朝鮮から一級の知識人で構成された通信使(数百人)が派遣され、対馬藩の案内で関門海峡を通って鞆の浦(広島・福山)で潮をまち「対潮楼」という迎賓館で数日休息しました。その間、知識を得ようと日本全国から僧侶や学者などが大勢つめかけて、夜遅くまで筆談が交わされたという記録がたくさん残っています。



大阪から江戸に至る道中、幕府から沿道の各藩には礼儀を失することなく、また汚い家はとり壊すなどの達しが出され、中仙道の宿場町の道は掃き清められ整備されたといいます。



高麗・朝鮮は、14世紀ごろからづっと倭寇の侵入に悩まされていて、また秀吉の「慶長文禄の役」で被害が甚大だったので、様子見の目的で、武力よりは外交による防衛政策をとってきました。そうして、徳川時代の朱子学は、李退渓という大儒学者の弟子が日本に伝えたとされまています。



18世紀中ごろになると、朝鮮には米やフランスの艦隊がそれぞれやって来て開港を求めましたが、朝鮮政府はこれを拒み「攘夷」を実行して撃退しました。(仏はインドシナを巡って清国と争いアメリカは南北戦争などがあったので、彼らにとって朝鮮は国力を傾けてまで開港を迫る必要性はなかったのでしょう)最後に日本によって門をこじ開けられたのは、同じ儒教の言葉をもつ間柄だったからでしょう。

さて、「間違った教育や戦争政策は昔のことではないか?}と思う人が多いと思います。



明治政権がつくり上げ積極的に「刷り込み」を続けてきた思想は、今も現代日本人の意識の中で連綿と受け継がれて来ている、ということを私は指摘しておきたいと思います。



1951年、日本は「あの戦争はまちがいだった」とサンフランシスコ平和条約で誓って独立を認められたのに、日本社会には「誤った道を歩んできた」という認識の共有性がありません。

「世界ではあの時代、日本はファッシズムだった」と学校で教えているのに、日本ではそうは教えていません。



日本を代表するような70万部も売っている複数の雑誌が、堂々と「あの戦争は自存自衛の正義の、戦争だった」という。そう書けば雑誌が売れる、という社会の合意のようなものがあるのです。国会議員にもそういうことを言う人がいます。



東京のああいう極右の都知事さんが、350万票もとって再選される、これは言論の自由とかいう問題とは本質的に異なります。

歴史的な出来事というのは見方によって様々だと云う事が言われます。それは私もそう思います。しかし、それは現代の価値基準に立脚したうえで客観的な歴史的事実をちゃんと踏まえるという前提で云えることです。



ある意図や予め決めておいた方向性で物事を見てしまうと、不都合なことは頭の中で無意識に消してしまうのです。サイコロジーでいう「バイアス」です。

近代、日本と朝鮮とのかかわり 1910年の強制併合は国権の強奪であり、その頃「何が起きたのか」を知ろうとすらしないのは、想像力を持って歴史を見る姿勢とはほど遠いと思います。 



ひるがえって、簡単に35年の植民地統治といいますが、その中身は 言葉や文化、風俗というより、個人の尊厳、拠り所、もてる人間のすべてを、銃剣で奪い統治したと言う事でした。

素晴らしい伝統や美意識をもつ日本人の国が、なぜそういう他人の弱みに付け込むような侵略性をもつ国になっていったのか?



繊細で親切な日本人の国家が、なぜ猛々しい帝国に変貌していったのか、という疑問を私はづっともって来ました?



昨今は「歴女ブーム」という言葉があって、ドラマや小説を通して 戦国時代や幕末にはやたらと詳しいのですが、アジア太平洋戦争は知らない ひどい場合は中国への侵略や朝鮮の植民地支配すらよく知らない、という人が多いのはなぜなのでしょうか?



「知らなくても何も恥ずかしくない」 というある種の「異常性」がそこにあるように思いました。



「学校で習わなかった」「自分には関係ない」と言う論理がもし成り立つのであれば、日本人である事をやめ、パスポートを破り捨て、無国籍者か難民にでもなる方法があるのではないかと思います。



自分の国の近い過去を知らない、という事は、自分はどこで生まれて、どこで学校に通い、どこで仕事をし、という人生の経歴を忘れたのと同じです。



最近わたしは日本から、瀋陽、大連ツアー旅行というパッケージツアーに参加して行ったことがあります。瀋陽はむかし「奉天」といって、そこの郊外にあるミュージアム(戦争記念館)はあの満州事変が起きた柳条湖にあるのですが、日本関東軍が様々な不法行為をやったことが写真などの説明に(英語と中国語で)記されていました。ところが日本人旅行者は誰ひとりとして、そういうことを知らないのです。「なぜ日本のことをそんなに悪く言うのだ」とさえ云います。



大連では、旅順の203高地で乃木稀助将軍がどうしたこうしたという武勇伝にばかり関心があって、呆れてしまいました。



サンフランシスコ平和条約の意味についてですが、国際社会にへつらったのは「戦争に負けて仕方がなかったから」と云わんばかりの論調は、社会的に批判されなけばなりません。歴代の政府も国民も過去を批判的に受け入れられない これこそが現代日本の最大の歪みであり、大きな問題ではないかと思います。「靖国 」の意味もそうです。



平和教育運動をやっているという元教師の人と話しをした事がありますが、ただ「命が無残に失われる悲惨さから戦争を考える」のみ、という印象を受けました。「戦争はむごい、すべて戦争が悪い」とオウム返しで言うだけですから、子供たちも同じ事しか云えません。



原爆とか戦争の悲惨さのみを教え加害者としての過去を教えない また、戦争の本質的なところには関心がないように私にはみえました。失われた命は、日本人の戦没者310万、アジア太平洋地域で1900万人です。



縄文時代も大切なのでしょうが、学校では近現代史をちゃんと教えるべきです。

「東アジア共同体構想」を念頭に、日本の近代史を産業発展史という側面からみますと、明治維新の頃、(これはカナダの歴史にも関係して来るのですが) 欧州では英・仏の争いあいがあり、東アジアでロシアを牽制したかった英国は、日本を使ってそれをやろうとし、1902年日英同盟を結びました。日本の戦争債(債権・国債)を引き受け、大々的な武器供与をし日露戦争に肩入れしました。一方フランスは、ロシアに大きな借款を供与し投資もしていたので、ロシアをバックアップしました。そういうことから日露戦争は英仏の代理戦争だったと云えます。



先ごろ破綻した米のリーマンブラザーズ(それにゴールドマン・サックスも)は、既にその時代からあって、米政府の勧めで日本の外債を大量に引き受けていたので、セオドア・ルーズベルト大統領はポーツマスで講和の仲介に積極的に乗り出しました。ロシアはまんまと米の思うつぼに嵌って情報戦に負けたと言えるでしょう。



そういう事から、西欧の産業や軍事技術は1922年の日英同盟の破棄に至るまではイギリスから、次にドイツからもたらされました。



日本は、最先端の軍事教育機関に人材を送り、総国力をあげた技術移転が英についで独から行われたのです。造船、機械、航空機、電子、化学、光学の技術は独由来でした。



中国など東アジアの綿工業製品市場では、日本と米英との間で奪い合いが起き、関係は悪くなりました。 三菱商事、三井物産などが国家権力と癒着して戦争政策に加担していきました。

戦後に軍民の兵器廠からあふれ出た膨大な数の技術者たちが、町工場に集まり物づくりを始めました。ソニー ホンダ キャノン  日本光学=ニコン・・・などです。



トヨタや日産は1930年ごろにデトロイトのGMが使っていた廃棄設備を、技術者ともども買い取り、国の戦争政策に沿った産業として、育成されました。トヨタは戦後に破綻の危機にありましたが、朝鮮戦争で米軍から70台のトラックの発注を受け復活発展して来ました。



コスト計算のない戦争政策が 皮肉にも後世に産業の技術的基盤を残したのです。こうして日本はドイツ由来の生産技術を積みあげ、朝鮮戦争特需が追い風となってわずか20年で経済大国になって行きました。



1945年敗戦 日本はGHQの統治となり、52年サンフランシスコ平和条約が発効して、日本は独立を認められるのですが、その後の社会や産業はどのようにして発展を遂げてきたのでしょうか?



1951年 国連からの復興調査チームは、道路事情の悪さに驚き、世界銀行融資を勧告して、名神高速や黒部ダム、東海道新幹線などが整備されました。

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日韓の関係を振り返りますと、65年アメリカの後押しによって、日韓基本条約が結ばれ、国交が開かれました。北朝鮮とは今も国交がないままです。



互いの国と国とが、ウィンウィンの関係になるには、Marketがアンフェアーであってはいけません。日本ブランドをアジアで作った物は売れるのでしょうが、アジアブランドの商品は日本では売れません。中国製の扇風機や電気ヒーターのような付加価値性の低いものは売れるのでしょうが、中国製エアーコンや冷蔵庫は今や、世界市場で日本メーカーを寄せつけないほどのシェアーを持っているのに、日本の消費者は誰として買いません。



こんにち中国はGDP世界第2位になり世界経済を牽引しています。日本にとって最大の貿易相手国となりました。



世界の新興市場が注目されている現在グローバルマーケットの中、東アジアの求められる「信頼できるパートナー」像として日本をみるとき、アジアの工業製品を日本の消費者は誰も買わない、このような日本のままではいけないのです。商品を買う買わないは無論消費者の自由なのですが、先ほど来わたしが述べた「特異の歴史観、アジア観」によって近隣の国に対するリスペクトが成立しませんから、人びとの消費行動には大きな限界と影響とが存在するのです。



その例ですが、薄型TV LCD市場では既にサムソンやLGが世界マーケットを席巻しているのに、日本市場では日本の消費者は誰も買いません。欧米市場で高い評価を受けているにもかかわらず、日本では全く売れないのです。日本の家電量販店でこれらの商品は見ることすら出来ません。



このような状況下では日韓のFTA自由貿易協定の締結は無理でしょう。EPA経済連携協定の話しも出てきていますが、これは関税の撤廃の他、資金や技術を互いに自由に融通しあおうという協定です。本当は、こういうことを推進しなければなりません。(韓国はFTAでEUとも米国などとも進んでいますが日本とはうまく進まないでいます。)



世界の半導体市場では10年以上も前から韓国企業がトップシェアーを占めており、今後注目を集めている二次電池(りちゅうむいおん電池)分野でも今後50%になる勢いとなっています。



空港からダウンタウンまでのカナダラインは現代ローテム社製の電車と交通システムで動いています。フレーザー河にかかるスカイ・トレインの橋など韓国企業が国際入札で落札していますし、ブラジルではこれまで地下鉄の訳70%近くが韓国企業によって作られ運行されています。そういうニュースは日本語メディアは余り報道したがりません。これでは鎖国です。



これからの東アジアは、互いに自由貿易なくして生きられないのですから、グロバルマーけっとの中で良きパートナーとして生きていく道を探るべきでしょう。



ルックダウン 嫉妬 否定の論理を排除し、互いがリスペクトする対等の関係となれば、人の交流も更に増え、未来はより明るいものになるでしょう。



日本が、東アジアの信頼されるパートナーとして、生きていくためには 過去、現代からよりよき未来へと繋げられるよう皆で努力すべきなのです。これからは欧米の顔色ばかり見ているような時代ではありません。



日本が、歩んで来た近代という時代の中で、近隣の国ぐにとどのように関わってきたのか?そういうことを知り理解する事こそが、これからの良い時代を築いていくための土台となるのです。



そうすれば、私は、アジアの未来は必ず明るいものになると信じています。

9.10.2010

An email from Masa Kagami

9月11日のイベントと関連し、VSA9の世話人である賀上マサさんが中国から帰ってすぐVSA9関係者に送ったメールを、ご本人の許可を得て共有します。

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この1週間、中国での現代建築も興味をもって見たのですが、上海や南京での高層ビルやその他の最新の建築物を見て感じた事は、やはり中国建築の伝統と特徴が脈打っている事です。その昔日本や朝鮮半島から僧侶や学者が漢字や仏典を学びに長安等の都に渡った際、初めて目にする壮大な建築物を目にして感激又は畏怖の念を抱いたに違いないと思うのですが、1200年以上前の日本人が持ったであろう感慨と同じようなものを今日の中国建築に接した現代の私が持った事です。その意味では中国の歴史と文化の懐の深さを感じました。

又一人で安旅行をしながら店や駅やホテルなどで普通の市民と接したのですが、漢字を取り入れた (というよりそれ以前は表記する手段が日本語には無かったのでしょうが) という以外にも日本語そのものが中国語の影響を、特に発音で大きく受けていて我々日本人はそれを知らずに、又は意識せずに日本語を使っているという事実です。

漢字の音読みの事を言っているのですが、例えば、上海空港で蘇州行きのバスを待っていた際に出発定刻10分前になったので、バスが既にターミナルに来ているのかどうか、言葉では聞けなかったので、切符を取り出し出発時刻の数字を指差して (少しあせりの表情が私の顔に出たかどうかは分かりませんが)、質問に代えた所、向こうもすぐ察して返ってきた言葉が、”ミィライ”と私の耳に聞こえたました。反射的に頭に浮かんだのは、「未来:未だ来たらず」という漢字と漢文読み日本文で、多分その意味と漢字は間違っていないと思います。案の定、その蘇州行きバスは数分後に到着しました。日本語と中国語の繋がりを感じた一瞬でした。

それから、今日の上海からの飛行機の中では、隣の中国人だろう乗客は、飲み物サービスの時にほとんど"チャー、又はジャーと私の耳に聞こえた言葉を発し、何が出されるのかと見ていたら、これはお茶でした。日本語でもチャと発音するので、これは多分、茶が中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった時点では、お茶は日本には存在せず、そのために中国語の発音がそのまま日本語になったのだろうと想像します。そう考えると、明治維新以後に西洋の外来語が多く日本語に取り込まれたように、もっと以前には中国語が外来語として日本語になったものが、又同様の理由で朝鮮語が日本語になったものも多くあるのだろうと思います。

その昔の日本人は、明治維新後に西洋に遅れを感じ、その文化を取り入れて追いつこうとしたように、中国、朝鮮半島の文化や工芸技術を憧れと尊敬の念を持って取り入れようとし、実際そうしたのですが、どうしてその経緯が葬り去られ、明治以降の侵略と現代までにつながる蔑視に向かっていったのかという疑問が出てきます。

この点は、黄 圭さんが土曜日に触れられると思うのですが、そして黄さんは福沢諭吉をその一人として指差しているようですが、同じ事を8月27日付けの週間金曜日812号で、安川寿之輔という名古屋大学の名誉教授で不戦兵士・市民の会福代表理事が述べていて、その記事(P.18)によると、

”福沢がやったことは、朝鮮と中国に対する丸ごとの蔑視・偏見の垂れ流しであり、おっしゃったように侵略の扇動でした。明治国家が朝鮮への介入を強化していく1880年代には、「朝鮮人は未開の民・・・・極めて頑愚・・・凶暴」 「支那人民の怯ダ(リッシン偏に需)卑屈は実に法外無類」 「チャイニーズ・・・恰も乞食穢多」 「朝鮮国・・・人民一般の利害如何を論ずるときは、滅亡こそ・・・其幸福は大」などと発信している。”と有ります。出典等は記されていませんが。

さらに安川氏は、同記事で福沢諭吉は1882年の「東洋の政略果たして如何せん」において、「印度支那の土人等を御すること英人に倣うのみならず、其英人をもクルシ(ウ冠に八、その下に君)メテ東洋の権柄を我一手に握らん」 「日章の国旗以って東洋の全面をオオ(手偏に奄)ふて其旗風は遠く西洋諸国にまでも」と引用し、強烈であからさまな植民地主義、侵略主義の扇動を指摘しています。

確かに私達が学校やテレビで習ったり聞かされた福沢諭吉の言葉 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という平等思想とはなんという違いでしょうか。そしてそのような福沢諭吉が1万円札に印刷され、彼の上記思想が日本の学校やメディアでほとんど教えられない、取り上げられないという日本の戦後と現在は一体どうなっているのでしょうか。何故戦後のいわゆる左派歴史家からもこのような指摘がなされなかったか、声が届かなかったのでしょうか?

朝日新聞サイトより 喧騒と沈黙のはざまで 金賢姫訪日の不思議な4日間

朝日新聞ウェブサイトより。

http://www.asahi.com/shimbun/jschool/report/new.html

【放送】喧騒と沈黙のはざまで 金賢姫訪日の不思議な4日間

2010年9月10日
筆者 桜井 均
 7月20日、大韓航空機爆破事件(1987年)の実行犯として韓国で死刑判決をうけ、のちに恩赦された金賢姫(キムヒョンヒ)が、超法規的な上陸特別許可で日本を訪れた。拉致被害者家族と面談するためだ。金賢姫が離日する23日までの4日間、この国の中に“不思議”な時間が流れた。メディアの喧騒ぶりからその後の極端なだんまり―その間に「拉致事件」に関する日本人の独特な感受性を垣間見ることができた。

 テレビに登場するほとんどすべての論者が、紋切り型の踏み絵を踏むところから話を始める。まず北朝鮮に対する非難を人道上の立場から表明し、続いて、日本政府の無策ぶりを非難する。だが一様に「今度の来日は、いろいろ問題はあるが拉致事件の風化を防ぐ効果はあった」と締めくくる。こうした常套句を集団的に使いながら、誰もその地点にとどまるようには見えない。これを風化というのではないか。“不思議”というのは、そのことである。

 この疑問を抱いて、私は、4日分のテレビの収録画像(NHK「ニュース7」「ニュース9」、日テレ「スッキリ!!」「ズームイン!!SUPER」、TBS「みのもんたの朝ズバッ!」「ニュース23クロス」、フジ「スーパーニュース」「とくダネ!」、テレ朝「スーパーモーニング」「報道ステーション」など)を時系列で視聴してみた。

◆宙に浮いた日朝平壌宣言

 しかし、この比較に意味がないことはすぐに分かった。それぞれの保存映像の違いはあっても、情報源が同じでは、局ごとの主張を比べようがないのだ。

 金賢姫の移動を逐一追跡することを仕事と決め込んだ各テレビ局のリポーターたちは、空から地上から生中継でまくしたてる。中継が伝えるのは内容ではなく“臨場感”だけ。過剰な警備と贅沢な遊覧飛行を非難するために、メディアは車50台、ヘリ7機を雇った。そこへ中井洽拉致問題担当相からうるさくて話もできなかったと逆ねじを食らった。これはもう真面目な話とはいえない。

 しかし、耳を澄ませば、微妙な言い回しの行間から大事な言葉が聴こえてきた。以下、4日の間に発せられた関係者の発言を拾い出し、拉致問題と不可分の関係にある2002年9月17日の「日朝平ピョンヤン壌宣言」と比べながら読みこんでみた。

 「(日朝)双方は、北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、互いに協力していくことを確認した。(双方は)この地域の関係各国の関係が正常化されるにつれ、地域の信頼醸成を図るための枠組みを整備していくことが重要であるとの認識を一にした」という文言は、長いあいだ断絶してきた日朝両国の国交正常化が、北東アジア地域の平和と安定につながるという見取図を表現していた。

 しかし、当時日本が認定した拉致被害者13人のうち、北朝鮮は、1人は入国せずとしたが、リストにはなかった1人を含む13人の拉致を認め、そのうち5人が生存、8人が死亡という衝撃的な情報がもたらされると、状況は一転。拉致問題の解決抜きに国交正常化などありえないという論調が大勢を占めるようになった。以後「平壌宣言」は宙に浮いてしまった。

 この4日間、誰一人としてそこに立ち返ることはなかった。

 もとより、「平壌宣言」とても、理念先行で行われたわけではなかった。前年の9・11事件以降、アメリカは「対テロ戦争」に突入。02年1月の一般教書演説でブッシュ大統領は北朝鮮をイラク、イランと並ぶ「悪の枢軸」と名指し、北朝鮮は態度を硬化させた。この年の秋、アメリカはイラク戦争の準備に着手していた。小泉首相の電撃的な訪朝は、日米関係を基軸としつつ、朝鮮半島の危険除去をねらった対応型政治でもあった。

 とはいえ、日本側は共同宣言の中に、拉致問題と工作船問題に対する北朝鮮側からの謝罪を盛り込むことに成功し、加えて大量破壊兵器の拡散を抑える枠組み(核不拡散条約の遵守)を設定することもできた。過去の植民地支配に対する補償についても、日韓基本条約(1965年)とレベルを合わせ、強制動員という“日本による大規模拉致事件”の前面化を回避した。

 拉致問題はこうした大きな文脈の中に位置づけられるはずであった。しかし、日朝の認識の隔たりは、二国間の友好を前提として北東アジアの平和と安定に向かうという道を完全に閉ざしてしまった。

 今回の金賢姫の来訪は、この閉塞をさらに悪化させるのか、それとも何らかの突破口を開くことにつながるのか、注目された。しかし、残念ながら以上のようないきさつはあまり語られることなく、4日間は喧騒のうちに過ぎていった。

◆日本・北朝鮮双方に歴史の犠牲者

 それでも、メディアのノイズの中に、拉致被害者の発話時における真実、声の変調を聞き分けることはできた。

 「平壌宣言」の日、横田めぐみさんの死を知らされた母早紀江さんは、記者会見で「(私たちの運動が)大きな政治の問題であることを暴露しました。このことはほんとに日本にとって大事なことでした。北朝鮮にとっても大事なことです。そのようなことのために、ほんとに、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたと思います。私はまだめぐみが生きていると信じて闘ってまいります」と語った。

 このときの早紀江さんは、長い政治の空白のためにめぐみさんたちが、冷戦体制下で激しく敵対する日朝の谷間、歴史の大きなうねりに呑み込まれた「犠牲者」だ、という認識を語っていた。

 その後、めぐみさんの生存の可能性が伝えられ、遺骨のDNA鑑定の結果、めぐみさんのものといえないことが分かると、生還への期待が一気に高まった。大きな転機であった。しかし、いまだに生存の確認には至っていない。そこに金賢姫がやってきた。

 金賢姫が来日する前日、7月19日のTBS「ニュース23クロス」は、早紀江さんのつぶやきをそのまま伝えていた。「いま聞いてもね、昔の話だから何が分かるってこともないけど……、見えない部分が出てくるわけだから、知ってかえって悲しくなるのかねえ。でも現実を知るしかないしね……」

 スタジオのキャスターは、横田夫妻はめぐみさんについて過去の情報が入るたびに、そのとき自分たちはどこに転勤し、どう暮らしていただろうと、自らの生活に重ね合わせてきた、とコメントした。空白の年表を作っているというのだ。

 「現実を知ること」によって空白を埋め、状況を変えていこうとするのは、歴史に対する正しい態度である。少なくとも横田早紀江さんのつぶやきに、政治と歴史を直視しようという萌芽のようなものを見分けることができる。

 7月22日、早紀江さんは前日の金賢姫との対面の様子を記者会見で語った。日テレの「スッキリ!!」はその肉声を未編集に近い状態で放送した。「一番感動したのは、両方ともが同じ中心点にある、同じものからのいろんな圧力とか指令によってものすごい人生を歩んできたわけですが、それでも時間をかけてぱたっとお会いしたときになんともいえない懐かしさというか、表現のしようのない懐かしさを感じました(傍点筆者)」。この発言は注目に値する。

 金賢姫は田口八重子さんから日本語を学び、その後、大韓航空機爆破事件を起こしたとされるが、めぐみさんは金賢姫の同期の工作員金淑姫に日本語を教えていたというのである。要するに、田口さんもめぐみさんも北の工作員育成の一端を担わされていたことになる。

 こうした中で、横田早紀江さんは、娘より2歳上の金賢姫との対面で体感しえたことを、個人のレベルを超えて、娘も金賢姫も北朝鮮の厳しい“強制”の中で生きていたことを確認しあった、と語ったのだ。それが「両方ともが同じ中心点にある、同じものからのいろんな圧力とか指令によってものすごい人生を歩んできた」という表現になったのである。しかし、他の放送局は、めぐみさんが猫を飼っていたとか、皆を笑わせていたとかという家族感情に訴える情報を伝えることが多かった。

 NHKは、編集によって肝心の部分を落として、「(互いに)ものすごい人生を歩んできたわけですが、それでも時間をかけて会った時になんともいえないなつかしさというか」という部分だけを放送した。早紀江さんの真意を聞き落としたのか、切り落としたのか分からないが、これでは政治のリアリズム、冷戦の遺構の中に今も生きる人々の現実は伝わってこない。

◆解凍できない冷戦構造

 テレ朝「スーパーモーニング」では、「救う会」会長の西岡力東京基督教大学教授が「金賢姫は、韓国で拉致被害者の情報を証言したために、北にいる家族が収容所に送られた可能性がある。金元工作員の家族についても心配している。これは北朝鮮の体制の罪であり、めぐみさんも工作員(金淑姫)の教師としてテロに加担させられた。だから、金賢姫もめぐみさんも被害者である。むろん、金賢姫は大韓航空機爆破の実行犯としての罪は免れないが……」と解説を加えた。

 拉致事件と大韓航空機爆破事件を核心部分で結びつける背景があるというのだ。

 折から、ベトナムのハノイで東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議(7月20~23日)が開催されていた。会議では、韓国の哨戒艦沈没事件をめぐって米韓日が一致して北朝鮮に対する強硬姿勢をとることがより鮮明になった。

 当然のことながら、金賢姫の来日は、こうした北東アジアの緊張関係の中で語られることになった。

 金賢姫が離日して2日後のTBS「サンデーモーニング」で、国際政治学者の浅井信雄氏は東アジア情勢を「日米韓は、韓国の哨戒艦爆破事件では一貫して結束している。国連を舞台にした北朝鮮非難の決議を出したかったが、北朝鮮の名前も出さない議長声明に終わった。それへの巻き返しとして、米韓が日本海で合同軍事演習をする。そこに日本がオブザーバーとして参加する。意外なのは、ASEAN外相会議で北朝鮮代表団は話し合い路線を表明している。中国は日米韓の動きを警戒している」と分析した。

 さらに「コリア・レポート」編集長の辺真一氏は、今回の金賢姫の来日は、朝鮮半島情勢の緊張を高め、結果として普天間基地の抑止力を再認識させる作用をもたらしていると発言した。

 大韓航空機爆破事件と韓国哨戒艦沈没事件。これらを結びつけて強硬路線に舵を切るのか、それとも、歴史的な背景を踏まえた対話の道を探るのか、拉致問題はまたもや錯綜する政治の文脈の中に置かれようとしている。そして、冷戦の落とし子である「拉致問題」は、北東アジアの解凍できない冷戦構造の真っ只中にある。

◆まかり通る非歴史的思考

 この間、拉致被害者の会と距離をとってきた元事務局長の蓮池透氏がフジテレビ「ニュースジャパン」のインタビューに答えて、「(今回の金賢姫の招待は)韓国政府と日本政府のある一部の人の利害関係が一致したパフォーマンスだと思う」と述べた。政治を利用しようとして政治に利用される、その逆はないという意味であろう。

 金賢姫が日本を離れた7月23日、朝日新聞の夕刊に蓮池氏の発言が紹介された。7月3日に都内で行われたシンポジウム「拉致と日韓併合100年―いま、どのような対話が可能か?」での講演の一部だ。「悪に対しては交渉するのも許されないとされ、北朝鮮と柔軟に話し合おうという自分のような意見は非国民、売国奴と言われるようになった。家族会を聖域化し、とにかく強硬な姿勢をとれば解決を早められるとミスリードしてきたマスメディアは、家族に見果てぬ夢を与えてしまったという意味でも罪深い」

 白か黒か、敵か味方か、国民か非国民かという乱暴で非歴史的な思考がまかり通っている間は、前述の母親のような微妙だが確かな認識の変化を読み取ることは難しいかもしれない。

 評論家・加藤周一の「夕陽妄語」に「それでもお前は日本人か」という一文(朝日新聞夕刊、2002年6月24日)がある。戦前の日本では国の規格に合わない者は、「非国民」と呼ばれて排除された。加藤は書く、「『それでもお前は日本人か』をくり返しながら、軍国日本は多数の外国人を殺し、多数の日本人を犠牲にし、国中を焦土として、崩壊した」。こうしたことはほんとうに昔話になったと言いきれるかどうか。

 今年は、韓国併合から100年の節目の年である。朝鮮学校の授業料無償化、永住外国人の地方参政権の問題などが、東アジア情勢の変化と歴史認識の相違のなかで揺れ動きながら議論されている。

 不思議な4日間が過ぎて、メディアは多数派の大勢順応主義の側に身を委ねるのか、それともわずかな変化の兆しを読み取ろうとする側に立つのか、これから真価が問われることになろう。(「ジャーナリズム」10年9月号掲載)

   ◇

桜井 均(さくらい・ひとし)

元NHKプロデューサー。1946年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。主にNHKスペシャル番組を制作。番組「埋もれたエイズ報告」「東京裁判への道」など。著書に『テレビの自画像』(筑摩書房)、『テレビは戦争をどう描いてきたか』(岩波書店)など。NHK放送文化研究所でアーカイブ研究。立正大学文学部教授、立命館大学、東京大学で客員教授も。

9.07.2010

Vancouver Save Article 9 Event "For Peace in Northeast Asia" バンクーバー九条の会イベント 「東アジアの平和をもとめて」

This year marks the 100th year since Japan's forceful annexation of Korea. Vancouver Save Article 9 will host an event on September 11, 2010, with special guest speakers Hwang Kay, Kim Sung Joon, and Pae Ann, to learn about the history of Japan's colonization of Korea, the post-war Korea/Japan relationship, and issues surrounding zainichi Koreans (Korean residents in Japan), among other related issues, and think together about creating a peaceful future for Korea and Japan. It will be held 1:30 - 3:30 at Roundhouse Community Centre in Downtown Vancouver, across the street from Canada Line's Roundhouse Station. The admission will be free, and we accept donations to cover rental and other expenses. The event will be conducted in Japanese. For more information, email info@vsa9.org.

1910年の日本による韓国「併合」から今年で100年、多くの未解決問題を抱える日本と、朝鮮半島、そしてさらに中国等を含む東アジアの現況をどのように見ればいいのか。この地域の平和をこれからどのように築いて行けばいいのか。私達にできることはなにか。日本とカナダで活躍するゲスト3人に、それぞれの視点から語って頂きます。


シンポジウム

「日韓『併合』100年」の年に


東アジアの平和をもとめて


―在日コリアンの視点―


日時:9月11日(土)午後1時半~3時半 (1時15分開場)

場所:ラウンドハウスコミュニティーセンター:Multi-Media Room


(181 Roundhouse Mews, Vancouver、センターTel#:604-713-1800  カナダラインのラウンドハウス駅近く)

(会場は、2階の Multimedia Room です。受付前の階段から上に登ってください。)

主催:バンクーバー九条の会

協賛:ピース・フィロソフィー・センター


講演者:裵 安 (Pae Ann)氏、金 昇俊 (Kim Sung Joon)氏、黄 圭 (Hwang Kay)氏。

進行は全て日本語です。入場無料、寄付歓迎。ご家族、友人達にも声をかけ、一緒にご参加下さい。 お問合せは、info@vsa9.org  までお誘いあわせの上、ふるってご参加ください!

ゲストスピーカー プロフィール

裵 安

1957年東京生まれ。小学校から大学まで朝鮮学校で学ぶ。外国籍県民かながわ会議1,2期委員、NGOかながわ国際協力会議5,6期委員。NPO法人かながわ外国人すまいサポートセンター理事長、NPO法人アクションポートよこはま共同代表、横浜YMCA運営委員、共生のまちづくりネットワークよこはま代表、医療通訳コリア語スーパーバイザー、あーすフェスタかながわ企画委員などを務め、この2月外国人学校ネットワークかながわ設立。


黄 圭

1946年熊本県生まれ。
学生時代ベトナム反戦、朝鮮統一運動などに参加。 評論、小説などを執筆。
信用組合職員を経てビジネスオーナー。
1990年カナダに移民。
エッセイ集などの著書数冊。 「時代を生きる」(1997), 「群らん抄」 (2005), 「緋色のエッセー集」(2009) など。


金 昇俊


1945年、韓国の金海で誕生。
1953年に日本に移住。日本に居る間は、小学校から大学院まで学生として過ごす。
1973年にカナダに移住。
日本航空で18年、オーケー・グフト・ショップで10年勤務。
2001年からセミ・リタイアー生活(中学時代の後輩の会社の非常勤顧問を今も続けている)。
モットー・・・既存の絶対的価値基準(宗教・イデオロギー・ナショナリズム)に頼らず、自前の判断力で考え、行動すること。
著書
『「原罪」としてのナショナリズム」 教育史料出版会 2003年
『ナショナリズム イデオロギー 宗教  ー絶対的価値基準の恐るべき力とその秘密ー』 麻布学園・麻布文庫 2005年